愉快な仲間の名(迷?)言や、日常を投稿していこうと思います。
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後輩から言われた一言。
「先輩のブログ、もう最近普通のブログになってるじゃないスかw」
おいおい。
どうして人類は、こうも俺にアブノーマルであることを期待するのか。
どうも、リソルートです。
確かに、ここ数日『とりあえず更新』って感じ多いですが・・・。
別に将棋班って変な奴らじゃないですからね?
納得しない?
変なヤツだけじゃないですからね?
これなら納得してもらえますかね?
将棋班員って二十数人もいるんですよ?
このあたりで名誉挽回をば。
でも、汚名を返上できるほどマトモなヤツいねーな・・・(汗)
「先輩のブログ、もう最近普通のブログになってるじゃないスかw」
おいおい。
どうして人類は、こうも俺にアブノーマルであることを期待するのか。
どうも、リソルートです。
確かに、ここ数日『とりあえず更新』って感じ多いですが・・・。
別に将棋班って変な奴らじゃないですからね?
納得しない?
変なヤツだけじゃないですからね?
これなら納得してもらえますかね?
将棋班員って二十数人もいるんですよ?
このあたりで名誉挽回をば。
でも、汚名を返上できるほどマトモなヤツいねーな・・・(汗)
暇だと言いながらも、休日を謳歌する今日。
そろそろ愛についての論争に決着をつけようかと思います。
長くなりますが、お付き合いください。
ここ数日、夜静かになると、一人、本を片手に愛と向き合います。
『厨二的に俺カッコいいw』
まず、『愛する』ってなんでしょうか?
そのままの相手を愛する
愛するとは、若く美しい者を好んで手に入れたがったり、優れた者をなんとか自分のものにしようとしたり、自分の影響下に置こうとすることではない。
愛するとはまた、自分と似たような者を探したり、嗅ぎ分けたりすることでもないし、自分を好む者を好んで受け入れることでもない。
愛するとは、自分とはまったく正反対に生きている者を、その状態のまま喜ぶことだ。
自分とは逆の感性を持っている人をも、その感性のままに喜ぶことだ。
愛を使って二人の違いを埋めたり、どちらかを引っ込めさせるのではなく、両者の違いのままに喜ぶのが愛することなのだ。
(『漂泊者とその影』より)
少し難しすぎたでしょうか。
何を言いたいのかイマイチバシッと伝わらないでしょうか?
ここで使われている『愛する』という言葉の意味が、『恋愛』とイコールで結ばれるかというと、そうではないかもしれません。
多分、そういうことだと思います。
同じ文献で、ニーチェはこうも言っています。
真実の愛に満ちた行為は意識されない。
誰か他人に親切にしたあとは、快感を味わうことが出来るものだ。
親切な行為や善行そのものが快感であるというわけではなく、その行為のあとに自分が少しだけ聖人とか清い者とかに近づいたような気分を味わうことができるからだ。
しかし、普段の生活の中で私たちが友人や知人に親しくする場合には、それもまた善行だなどとは意識していない。
まったく自然に良いことをしているし、そして、その行為によって自分が清い者になったような気分を味わうことすらない。
けれども、こちらの行為の方が、親切を意識した行為よりはるかに真実の愛と心に満ち、上位にあるものなのだ。
(『漂泊者とその影』より)
つまり、
愛したいから愛するのではなくて、気がついたら愛しているものなのではないでしょうか。
また、愛するということは自然だと訴えているのかもしれません。
結構、今更感ありますね。
でも、大切なことって、わかってはいるんだけど・・・ってこと多いですよね。
大切なことを再確認することも大切です。
そうは言っても、
「愛とか恋とか、興味ないね」
って人もいると思います。
そんな人に、ニーチェはこう言います。
愛することを忘れると
人を愛することを忘れる。
そうすると次には、自分の中にも愛する価値があることすら忘れてしまい、自分すら愛さなくなる。
こうして、人間であることを終えてしまう。
(『曙光』より)
そんなバッカーナw
でも、言われてみると、確かにわかるかも・・・。
自己嫌悪ってそういうものかもしれません。
それに、『自分を愛する』っていうとナルシストみたいですが、
『自分を信じる』ことができない人って、他人からも信じられないですよね。
ということは、自分を愛さないと人からも愛されないのかも・・・!?
といいつつもニーチュは
「お互いに自分の方が愛されるべきだと思っているカップルは上手く行かない」 だの、
「『愛されたい』という欲求は、最大のうぬぼれ」 だの、
自分が愛されることに関しても、辛辣な言葉を述べていますよ。
最大のうぬぼれ
最大のうぬぼれとは何か。
愛されたいという要求だ。
そこには、自分を愛される価値があるのだという声高な主張がある。
そういう人は、自分を他の人々よりも高い位置にいる特別な存在だと思っている。
自分だけは特別に評価される資格があると思っている差別主義者だ。
(『人間的な、あまりに人間的な』より)
さて、長くなりましたが、今日のまとめに入りましょう。
悩める人に読んで欲しい名言第1位(笑)!
愛の病には
愛をめぐるさまざま問題で悩んでいるのなら、たった一つの確実な治療法がある。
それは、自分からもっと多く、もっと広く、もっと暖かく、そしていっそう強く愛してあげることだ。
愛には愛が最もよく効くのだから。
(『曙光』より)
よし。
愛そう。
他人を、違いを、自分を、活動を、生を、喜ぼう。
これからより愛していこう。
※ あくまで、ここでは、ニーチェの言葉による自分の考え方を述べただけです。
解釈の仕方、考え方は千差万別です。
ここにあることは、参考にする程度でお願いします<(_ _)>
長文&駄文失礼しました。
ニーチェの言葉ばかりで、俺の考えがほとんどありません(汗)
でも、これもいいですね。
真実の愛ってなんでしょうね?
では最後に。
愛は雨のように降る
愛はどうして公正さよりも人気があり、重んじられているのだろうか。
どうして愛についてだけ人は多くを語り、ひっきりなしに愛を賛美してやまないのだろうか。
公正さの方が、愛よりも知性的なものではないだろうか。
愛は、公正さよりもずっと愚かなものではないだろうか。
実は、そんな愚かなものだからこそ、全ての人にとって心地がいいのだ。愛は尽きぬ花束を持っていて、愚かな程に惜しみなく愛を与えてやまない。
相手がだれであろうとも、愛に値しない者であろうとも、不公正な人間であろうとも、愛を贈られても絶対に感謝などしない者であろうとも。
雨は善人の上にも悪人の上にも分け隔てなく降るが、愛もそんな雨とおなじで相手を選ばずに与え、びしょびしょに濡らしてしまうのだ。
(『人間的な、あまりに人間的な』より)
では。
そろそろ愛についての論争に決着をつけようかと思います。
長くなりますが、お付き合いください。
ここ数日、夜静かになると、一人、本を片手に愛と向き合います。
まず、『愛する』ってなんでしょうか?
そのままの相手を愛する
愛するとは、若く美しい者を好んで手に入れたがったり、優れた者をなんとか自分のものにしようとしたり、自分の影響下に置こうとすることではない。
愛するとはまた、自分と似たような者を探したり、嗅ぎ分けたりすることでもないし、自分を好む者を好んで受け入れることでもない。
愛するとは、自分とはまったく正反対に生きている者を、その状態のまま喜ぶことだ。
自分とは逆の感性を持っている人をも、その感性のままに喜ぶことだ。
愛を使って二人の違いを埋めたり、どちらかを引っ込めさせるのではなく、両者の違いのままに喜ぶのが愛することなのだ。
(『漂泊者とその影』より)
少し難しすぎたでしょうか。
何を言いたいのかイマイチバシッと伝わらないでしょうか?
ここで使われている『愛する』という言葉の意味が、『恋愛』とイコールで結ばれるかというと、そうではないかもしれません。
多分、そういうことだと思います。
同じ文献で、ニーチェはこうも言っています。
真実の愛に満ちた行為は意識されない。
誰か他人に親切にしたあとは、快感を味わうことが出来るものだ。
親切な行為や善行そのものが快感であるというわけではなく、その行為のあとに自分が少しだけ聖人とか清い者とかに近づいたような気分を味わうことができるからだ。
しかし、普段の生活の中で私たちが友人や知人に親しくする場合には、それもまた善行だなどとは意識していない。
まったく自然に良いことをしているし、そして、その行為によって自分が清い者になったような気分を味わうことすらない。
けれども、こちらの行為の方が、親切を意識した行為よりはるかに真実の愛と心に満ち、上位にあるものなのだ。
(『漂泊者とその影』より)
つまり、
愛したいから愛するのではなくて、気がついたら愛しているものなのではないでしょうか。
また、愛するということは自然だと訴えているのかもしれません。
結構、今更感ありますね。
でも、大切なことって、わかってはいるんだけど・・・ってこと多いですよね。
大切なことを再確認することも大切です。
そうは言っても、
「愛とか恋とか、興味ないね」
って人もいると思います。
そんな人に、ニーチェはこう言います。
愛することを忘れると
人を愛することを忘れる。
そうすると次には、自分の中にも愛する価値があることすら忘れてしまい、自分すら愛さなくなる。
こうして、人間であることを終えてしまう。
(『曙光』より)
そんなバッカーナw
でも、言われてみると、確かにわかるかも・・・。
自己嫌悪ってそういうものかもしれません。
それに、『自分を愛する』っていうとナルシストみたいですが、
『自分を信じる』ことができない人って、他人からも信じられないですよね。
ということは、自分を愛さないと人からも愛されないのかも・・・!?
といいつつもニーチュは
「お互いに自分の方が愛されるべきだと思っているカップルは上手く行かない」 だの、
「『愛されたい』という欲求は、最大のうぬぼれ」 だの、
自分が愛されることに関しても、辛辣な言葉を述べていますよ。
最大のうぬぼれ
最大のうぬぼれとは何か。
愛されたいという要求だ。
そこには、自分を愛される価値があるのだという声高な主張がある。
そういう人は、自分を他の人々よりも高い位置にいる特別な存在だと思っている。
自分だけは特別に評価される資格があると思っている差別主義者だ。
(『人間的な、あまりに人間的な』より)
さて、長くなりましたが、今日のまとめに入りましょう。
悩める人に読んで欲しい名言第1位(笑)!
愛の病には
愛をめぐるさまざま問題で悩んでいるのなら、たった一つの確実な治療法がある。
それは、自分からもっと多く、もっと広く、もっと暖かく、そしていっそう強く愛してあげることだ。
愛には愛が最もよく効くのだから。
(『曙光』より)
よし。
愛そう。
他人を、違いを、自分を、活動を、生を、喜ぼう。
これからより愛していこう。
※ あくまで、ここでは、ニーチェの言葉による自分の考え方を述べただけです。
解釈の仕方、考え方は千差万別です。
ここにあることは、参考にする程度でお願いします<(_ _)>
長文&駄文失礼しました。
ニーチェの言葉ばかりで、俺の考えがほとんどありません(汗)
でも、これもいいですね。
真実の愛ってなんでしょうね?
では最後に。
愛は雨のように降る
愛はどうして公正さよりも人気があり、重んじられているのだろうか。
どうして愛についてだけ人は多くを語り、ひっきりなしに愛を賛美してやまないのだろうか。
公正さの方が、愛よりも知性的なものではないだろうか。
愛は、公正さよりもずっと愚かなものではないだろうか。
実は、そんな愚かなものだからこそ、全ての人にとって心地がいいのだ。愛は尽きぬ花束を持っていて、愚かな程に惜しみなく愛を与えてやまない。
相手がだれであろうとも、愛に値しない者であろうとも、不公正な人間であろうとも、愛を贈られても絶対に感謝などしない者であろうとも。
雨は善人の上にも悪人の上にも分け隔てなく降るが、愛もそんな雨とおなじで相手を選ばずに与え、びしょびしょに濡らしてしまうのだ。
(『人間的な、あまりに人間的な』より)
では。
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Re:無題
>moti
愛ってなんだろうな。
恋は『してしまう』ものだってことかな?w
愛ってなんだろうな。
恋は『してしまう』ものだってことかな?w
プロフィール
HN:
リソルート
性別:
男性
自己紹介:
一介の大学生。
というか、吟遊詩人。
一貫した記事の傾向はなく、多岐にわたります。
多いのは、真面目な内容とバカな日常です。
最近は更新が滞っていますが、生きてます。
コメント・拍手ありますと、主が喜びます。
リンク希望などあれば、コメントからお気軽にどぞ。
というか、吟遊詩人。
一貫した記事の傾向はなく、多岐にわたります。
多いのは、真面目な内容とバカな日常です。
最近は更新が滞っていますが、生きてます。
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